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長崎いにしえコラム~稲佐

竹村倉二(タケムラ クラジ)

竹村 倉二

写真家、映像製作、コラムニスト
アートワークス代表 http://www.artworks-inter.net/

長崎いにしえコラム  「稲佐

姫

かつて大陸の国は、日本国を「倭」と呼んでいた。
朝鮮大陸の「百済」から、ある集団が一人の姫をつれて長崎の地に流れついた。

彼等は、矢を巧みにあやつる。

後に「倭」の人々は、彼等を「イナサ」と呼んだ。
「早き矢を射る者」という意味である。

アシタカ

姫は故郷である「百済」の祖先を神として祭り、海岸に社をかまえた。

やがて時が過ぎ、故国が滅んだと聞いた「イナサ」たちは「稲佐人」となっって行きようと決意した。

一族は次第に広がり各地に散っていき「倭」の人々に同化していった。

「倭」の国はやがて「大和」となり「日の本」となった。
「稲佐人」は、この国の戦乱の中に消え去っていった。
「早き矢を射る者」の血を引く故に、猛々しく戦い倒れていった。

稲佐の辺りには「神」の付く地名が多い。
「神の島」「立神」「女神」「神崎」等がある。

立神は稲佐神社に住む「姫」や「巫女」達を警護する武人達の建物があり、神(巫女)をまもる武(士)、いわゆる「武(たけ)神」から来たものである。

竹の久保、立岩は、海側ではなく陸地からの侵略を防ぐために川沿い(浦上川)に作られた、砦の名称の名残であり「竹」も「立」も「武(たけ)」の意味をもつ名前である。

稲佐山の豪族「稲佐」氏の名前は南北朝の抗争まで記録に残っているので、度重なる大和の攻撃に耐え抜き、和解の道をとったと思われる。

今は誰も知らない話である。

グラバー園
グラバー園から稲佐山を望む。

イナサの由来

古代日本と百済間の交流、往来は頻繁であった。
西暦597年、百済の威徳王は息子(王子)「阿佐」を日本に派遣する。
時の帝は推古天皇(554-628)である。

阿佐は聖徳太子(574-622)とも交流し、聖徳太子の肖像画(宮内庁所蔵)を描いたと伝えられる。
「聖徳太子伝暦」によれば、聖徳太子が「阿佐は前世でわが弟子であった」と告げたという程の才人であったと伝えられる。

阿佐の行跡や帰国可否について、知る手がかりは見当たらない。

ただ、稲佐と阿佐が百済というキーワードで結びつくのみである。

聖徳太子の肖像画(宮内庁所蔵)

百済は古代の朝鮮半島ツングース系扶余族による国家(346年-660年)
中国の唐に滅ぼされ、最終的に新羅に組み入れられた。

新長埼年表(長埼文献社)によれば貞観三年(861)の記録として
「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる」とある。

稲佐神社(佐賀県杵島郡有明町)
http://kamnavi.jp/it/tukusi/inasa.htm

文責:竹村裕明

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